わたしという大きな幸せ
――――――世の中には説明のつかないものが幾つでも転がっている。
それは、古代の人の文明?宇宙の神秘?人の心?
けしてそれは、人の都合で解明できるものではない。
だからこそ、人は求め、訴える。
そう簡単には得られるはずも無い答えを、唯、ひたすらに。
けれども、いつかは判るのかもしれないのだろう。
ひたむきに思う、自分に対して在るものの答えのみ。
手に入れられる者は、触れることのできる答えのありがたみを知る。
世の中はそう、そういうふうになっているのだ。
第一章
「…………うぅむ」
時計の針が丁度七時を指した頃。
太陽も今日はそのお顔を現しなさらない様だった。
高層ビルの立ち並ぶ都内に比べ、ここは軒並み普通。
豪勢な住宅街ではない代わりに、質素でもない。
いわゆる、中流家庭の住まう地域である。
その中でも特に大きな家。中津一家が住まう。
屋敷…………と言うほどには大きくはなく、民家…………と言うほど小さくもない。
丁度良い表現で、どこかの市の会館の規模を持つ邸宅なのであった。
「……しかたねぇか。歩いて行くしか…」
苛立ちながらも、その手は正確な軌道を描き自転車の駆動部を修理している。
立ち上がり様に額を拭い、玄関から家に入る。
「まったく、朝っぱらからなんてこった……」
顔を歪めながら思うは、あきらかに苛立ちの原因である、中津大幸の自転車に対してのものだ。
彼の自転車は、つい先ほど持ち主の目の前……いや、原因は彼自身にもあるのだが、自らの手によって崩壊活動を起こしたのだった。
春休み明け、登校に自転車を使おうと点検してみれば、コレだ。
「そういゃあ、今年の春休みはやけに雨続きだったな……」
そう、野ざらし紀行ならぬ、野晒し自転車の刑を我が自転車に下していたのだった。
普段の大幸は細かい事にまで注意を怠らない性格であり、至極一般的に言えば「おせっかい」なのである。
しかし、そんな彼の中に潜むおせっかい魔人も、例によっての春休みボケに体良く捕まっていたのだった。
肝心な時にコレでは、自分の中の住人とはいえ、困ったものであるとは思う。
「しっかしチェーンが切れるとは……。かつて聞いたことも無ぇぞ?……俺の辞書にも書いて無いぜ」
ふざけたことを言いつつ、洗面台に行き、油で汚れた手を石けんで洗い流す。
手の油と格闘する事1、2分。
「……っこの……落ちねぇなぁ」
チェーンの油だ、そう簡単には落ちるはずも無い。
ふと、鏡を見上げた大幸は気づいた。気づいてしまった。
「か、顔に……!?」
額に丁度、皺を作る様に真横に一文字(いちもんじ)。
「こりゃぁ、マジで落ちないぞ……」
なんつーこった。久しぶりの仲間との対面。それも新学期の始業式だ。
初対面の人もいる。これはウケ狙いだとしても、引かれること間違いなしだ。
そんなこんなで鏡の前に四苦八苦している大幸。の、後ろで何者かが蠢く音がした。
気配が動くと同時に、低く鈍い音。
「っっっ!!……いったぁ〜いぃ…………!」
布団から這いずり出したまんまの形で、膝を抱えて悶え苦しんでいる女性。
「…」
大幸は気づかなかったかの様に自分の額を擦っている。
「ちょっとちょっとぉ〜。シカトぉ〜?」
今まで痛がっていたのも忘れたかの様に、大幸に擦り寄ってきた。
それでも知らぬ存ぜぬを貫き通す大幸。
「ひ・ろ・ちゃ〜ん。ねぇ……冷たくしないでよぉ……」
首に手を回してきたところで、我慢の限界。
「だぁ〜!うっとうしい!寄るな!近づくな!そんでもって涎を拭くなぁぁ〜!」
寝涎を大幸の制服の裾に擦り付けながら、えへへ、と首を傾げる35歳。
これはこれは……。息子には見るに堪える有り様でありますな……。
「はいはい…。そうそう、机の上に飯は出来てるからな。食ったら食器はちゃんと水に漬けといてくれよ?」
ハッとした表情で机の方を振り返り、猛然とダッシュ。そして、飯を奪取。
瞬きをする瞬間には彼女の手は既に箸を掴んでいた。
「いっただっきまぁ〜…はむっモグモグ……」
この食いしん坊さんの名前は中津 良子。未亡人。
近所の飲み屋でママとして働いている。
俺の知ったこっちゃないが、結構な繁盛らしい。
親父が個人経営から始めた店も今では多数の常連客を抱えるこの町有数の居酒屋となった。
大黒柱である母親の収入が安定していることは、家としては、ありがたいことだ。
しかし、俺個人としては居酒屋のママという職業は迷惑だ。
それというのも、この職業についてからというもの、職業病からなのか、この性格だ。
親父も俺が生まれてすぐに死んだっていうらしいし。
まぁとにかく、私生活と仕事は区別を付けてほしい……。
と、そんなことを考えながら、油を落とすのも、母の性格も諦め、自分も食事を取ろうと机に着く。
「って、ぬぁ!?」
二人の食事分がギリギリ乗せられるくらいのスペース一杯に置いてあった朝飯達が、ものの数分でキレイさっぱり無くなっていた。
……我が母親ながら、立派な食いっぷりだ。
「って、そんな事言ってる場合じゃねぇ!」
しまった、と思った。実は、弁当分のおかずを取り分けておくのを忘れていたのだ。
さっきの事といい、おかずの事といい。今日の俺はどうかしている。
「チャリも壊れているっつーのに……」
勢いよく立ち上がり、椅子に掛けてあった制服のブレザー羽織る。
「ごちそうさまー。あれぇ?そういえば、制服なんて着て………学校?」
訝しげにこちらを見ながら、良子は問い詰めるように聞く。
「ん?……ああ、今日から新学期だ。」
「おぉ〜!おめっとさん!ぴっかぴかの二年生だねぇ!」
これでも良子はちゃんと高校までは行っているのである。
外見や行動からはまったく予想はできないが。
大幸はやれやれ、と首を振って玄関へ。
靴を履き
「んじゃ、行ってくるわ」
「いってらっしゃぁい!」
良子の見送りで家の扉の取っ手を回す。
朝のなんとも言えない埃っぽい匂いと共に眩しい光が扉の隙間から差し込む。
外に出た大幸は、ふと、空を見上げる。
「お、晴れてきたな……」
白い雲が微かに残る深い海色の空。太陽もおはよう、と言っているかの様に……
「っといけねぇ、コンビニにも寄らないといけないんだった……」
壊れた自転車を横目に家の門を出た。
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